はじめに

筆者のラオス研究は20年目を迎えた。開発途上国の研究を志し、タイ国立タマサート大学の大学院に3年間留学したのはもう25年も前のことである。1986年の8月にタイ北部を旅行した際、タイのノンカイから川越しにヴィエンチャンのおぼろげな風景を見たのが、筆者にとってラオスとの初めての出会いであった。当時ノンカイにはメコン川のほとりにラオス難民キャンプがあった。ラオス人難民の青年と出会った時、金の指輪とブレスレットをしていたのに驚いた。そこには筆者が想像していた難民のイメージすなわち飢えや貧困といったものが感じられなかった。しかし彼には祖国を失ったことと微笑みがないことだけは事実であった。それから4年を経て、実際に自分がラオスに居住するとは想像だにしていなかった。1990年から1992年まで在ラオス日本国大使館における勤務は実に貴重な体験となった。日本の援助が徐々に増大する兆しが見え始めた頃であり、効果的な援助をする必要性からラオス経済の分析が筆者の主要な任務となっていた。当時ヴィエンチャンの街並みは、今のように自動車が渋滞するほどのにぎわいはなく、所々で水牛や黄牛が道路をふさぐ光景を目にしたものだった。夕食の準備をする家庭から薪の燃える臭いが私のラオスに対するノスタルジアを一層かき立てた日々だった。そしていまその薪は自動車の排気ガスに代わりはじめ、ラオスは急速に近代化の道を歩み始めているように思われる。

1991年に経済的後ろ盾となっていたソヴィエト連邦が消滅したことは、建国の理念として曲がりなりにも社会主義を標榜してきたラオスにとって大きな衝撃を受けたのも事実である。西側諸国の2国間援助が増大し始めるとともに、国際機関による多国間援助も増大し、人口わずか600万人足らずの小国は日本が供与する一人当たりの援助額で世界最高額水準に達した。ラオスは世界銀行やIMFの指導を通じて、金融改革、国有企業の民営化、外国投資奨励、法整備など様々な構造調整を進めたのが1990年代の前半であった。要するに旧ソビエト連邦からの援助が消滅した分は、西側諸国と国際機関から調達することで相殺された。また西側諸国と国際機関は、ラオスの旧ソビエト連邦離れを加速化させるために、対ラオス援助額は急増した。1990年代の半ばを超える頃には旧ソビエト連邦離れが確実なものとなると、国際機関のラオスに対する姿勢は厳しさを増すようになり、コンディショナリティーの厳格化とともに、ラオスはマクロ経済の運営がまずいという理由でIMFからの借款を借りることができなくなった。こうした状況下においてラオスは1997年7月には念願のアセアンに加盟したが、同年同月アジア通貨危機が発生し、為替レートが暴落するなどラオスのマクロ経済は最悪の時期を迎えることになった。このように20世紀の最後の四半世紀は1975年の社会主義革命に始まり、1986年のチンタナカーン・マイ(新思考)による市場経済化導入、1990年代は社会主義に対する信頼の喪失に始まり、国連による構造調整援助、そしてアセアン加盟という地域協力機構への参画、さらに通貨危機という抗しがたい外生的ショックに翻弄され、21世紀に突入した。アメリカの同時多発テロに始まった新世紀は暗い幕開けとなったが、世界経済はさらにグローバル化が進展するに違いなく、この荒波にラオスも巻き込まれていくことは不可避である。しかしラオスは人口600万足らずの陸封国といえども、政治的にはかなり安定した国造りを続けてきた。ラオスの最大の魅力は政治的安定性と汚染されていない自然、穏やかな国民性である。ラオスが経済的に自立し、安定していくために、私たち日本が支援できる協力のあり方についても改めて認識し直す必要があろう。

本書の作成に当たり、マウンテイン・フィールド・コンサルタント社の山田健一郎代表取締役に大変お世話になりました。ここに謝意を表します。

広島大学 大学院 国際協力研究科
教授 鈴木基義
経済学博士・前ラオス計画投資省政策顧問

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